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オトナコドモ

正直驚いた。

大学の運動部に「父母会」なる組織があり、部の運営や活動に意見するとは。

大学生といえば、大人だと認識していた。

選挙権も18歳以上から有することになったわけだし、大概の大学生は18歳以上だと思う。

20歳から18歳に年齢を引き下げたのは、18歳は大人として、あるいは社会人として、事の善悪、是非、正否などの判断を十分できるという意味だと思っていた。

自主的に人生や世間を歩んでいく能力が備わっていると認めているという社会の判断だと思っていた。

けれども、大学に父母会なるものがあり、父母が子らの活動を保護し、時に方向を修正し、舵取りを担っているのは、矛盾しないか?

おどろいているのは、それだけではない。

私が高校生だったころは、

「生徒」、「授業」と表現するのは、高校生までで、それより上の学校では「学生」、「講義」と言うと習ったものだった。なぜなら、高校生までは習う立場、それより上の学校では、自主的に学ぶ者となり、一方的に先生から教わるのではなく、ともに探求する立場となるためということだった。

しかし、昨今、テレビなどのニュースでは、大学生自身も、また、それ以外の大人も、大学生を「生徒」と称し、そこで学ぶ時間を「授業」と言っている。

これが日本語の正しい表現と受け止めてよいのだろうか。

大学へ入っても、自主的に学ぶことなく、講師や教授と共に探求することなく、一方的に習うのが当然、ということなら、子供と同じ。

だから父母会も当然存在し舵取りをする、ということなら、選挙権のない18歳未満と変わらないように思われる。

平均寿命が延びた分、「子供」でいる期間が延びたのだろうか。

がしかし、いくら子供がかわいくても、大事でも、構いすぎるのはよくないと思う。多少の怪我や失敗が予測できても、一人でやらせねば、いつまでもあると思うな親と金、だ。

などと考えるのは、いかにも年寄りのヒガミと笑わば笑え。